人はなぜ住宅を建設するのか /嫌われる建築家が持つ反社会性
建築家や設計士が嫌われると言うと、建設業界以外の人にはピンと来ないかもしれません。建築家や設計士はクリエイティブな仕事で、花形の職業に思われがちです。設計士が主人公のドラマもありますし、建築家の生涯を追ったドキュメンタリーが放送されることもありました。しかし建設現場では設計士をよく言わない人が多いですし、ネットにも嫌われない設計士にならないための指南が書いてあるサイトもあります。なぜ建築家や設計士は嫌われるのでしょうか。私は建築家は反社会性を内包していると思うので、今回はそのことについて書いていきたいと思います。
住宅のはじまり
そもそもなぜ人は住宅を作り始めたのでしょうか。人類が最初に住んだ住宅は、洞穴のような場所だったようです。雨風をしのぎ、野生動物から身を守るためには、洞穴のような場所が適していたのでしょう。その後、日本では竪穴式住居などが誕生して住宅と呼べるものが建設されるようになります。洞穴では湿気が多かったり、雨の時には水が流れ込んだりと不便が多かったので、より快適に生活することを求めた結果として住宅が生まれたのでしょう。
弥生時代に生まれた高床式住宅は、地面からの湿度を住宅内に入れない工夫ですし、穀物を食べるネズミが入れないように鼠返しが設置されました。さらに平安時代になると寝殿造の住宅が広まり、近代の視点で見ても住宅らしい住宅になっていきました。この頃には床を畳で敷き詰めるようになり、以前とは比べものにならないほど快適な生活が送れるようになったと思います。その後も書院造や武家屋敷の歴史を経て、快適な住宅に進化していきました。そして明治時代に急速な西洋化が進んで現在に至ります。
不自由になった住宅
住宅の歴史を見ていくと、より快適な生活のために住宅が進化してきたことがわかります。雨風をしのぎ、暑さを軽減し、湿気から守るといった工夫が凝らされました。また火災や地震、水害の被害に対抗するために、住宅はより頑丈に作られるようになり、燃えない(燃えにくい)材質が開発されていきました。そのため竪穴式住居に比べて現在の住宅は、建設に長い時間と手間がかかりコストも増大しています。
現在、住宅を購入するには年収の10年分ぐらいの住宅価格をローンで支払います。そのローンは数十年に及び、多くのサラリーマンは一生かけて住宅ローンを支払うようになりました。その結果、簡単に引っ越したり住み替えることができなくなりました。2歳の子供が1人いる夫婦が住宅を購入し、やがてもう1人産まれて家族4人で過ごし、子供たちが巣立って夫婦2人に戻る間、ずっと同じ住宅に住むのは無理があります。窮屈な想いをしたり、一部の部屋を持て余したりなど、自分達の生活スタイルに合わなくとも住宅ローンに縛られている限り、そこに住み続けなくてはならないのです。快適さを求めてきた結果、住宅は恐ろしく不自由になったとも言えます。
不自由さと戦う人達
建築家の中には、このような不自由さと戦う人がいます。一時期、固定された間仕切壁がほとんどなく、稼働間仕切壁だらけの住宅がもてはやされたことがありました。家族構成が変化しても自由に間仕切を変えられるため、ストレスなく使える住宅を目指したものでした。こうした不自由さへの抵抗は続けられており、その不自由さをもたらす法律や行政指導への不満も出てきます。もちろん法律や行政指導は過去のトラブルや災害などによる被害を最小限にするためのものです。しかしそれが不自由さの原因にもなっているため、法律の考え方と建築家の考え方は衝突しやすいのです。
私はゼネコン時代にある設計士から「法律を守っていたら良い建築はできないんだよ」と言われたことがあります。無茶苦茶だと思いましたが、この建築士は真剣で苛立っていました。これは法律による斜線制限により建物の形状に不満があったことに加え、消防法によりスプリンクラーを設置したために間接照明だけのシンプルな天井に器具が目立ってしまったことがきっかけでした。まるでスプリンクラーを外せと言いたげでもあり、苦渋の表情でもあったのが印象的でした。建築家は不自由さと戦う中で、このような反社会性をも内包しているのだと思います。
自由すぎる建築家
フランク・ロイド・ライト
フランク・ロイド・ライトはアメリカの建築家で、近代建築のビッグ3に数えられる世界的な建築家です。若くして名声を得ますが、贅沢を好み子供も多かったため生活は常に困窮していました。独立して事務所を構えると個人住宅を中心に設計を続け、その名声を全米に轟かせることになりますが、建築主の妻(チェイニー夫人)と不倫関係になって駆け落ちしたことで大きなスキャンダルになりました。顧客の妻を寝取っただけでなく駆け落ちまでしたことでライトの評判は地に堕ちますが、ライトの妻は離婚には応じようとしませんでした。
2年間のヨーロッパへの逃避行をしたライトとチェイニー夫人はアメリカに戻りますが、仕事は激減していました。仕方なくライトはウィスコンシン州で新たな住宅の設計をはじめ、チェイニー夫人とその連子2人と共に生活を始めました。ところが使用人の1人がチェイニー夫人と子供2人、さらにライトの弟子7人を斧で惨殺し、家に火をつけてしまいました。犯人は動機を語ることなく獄中で死亡し、ライトは再びスキャンダルの渦中に置かれてしましました。
ライトはスキャンダルから逃げるように、日本に向かいました。帝国ホテルの設計依頼があったためです。しかし経営陣と激しく衝突してしまい、ホテルの完成を見ることなくアメリカに帰ってしまいました。そして帰国すると、失意のライトを慰め続けてくれたミリアムという女性と結婚しました。しかしミリアムはモルヒネ中毒であり、結婚生活は困難なものでした。そのミリアムとの結婚から1年後にシカゴでオルギアンナという女性に出逢います。2人は互いに一目惚れしてダブル不倫の関係になります。ライトはミリアムとすぐに離婚し、やがてオルギアンナも離婚したため2人は結婚することになりました。
ルイス・カーン
エストニア生まれのルイス・カーンは、5歳の頃にアメリカのフィラデルフィアに家族で移住しました。ペンシルバニア大学で建築を学ぶと、フィラデルフィア万博で6つの建物を設計して着実に実績を重ねました。結婚もして順風満帆な生活を送っていましたが、1929年10月の暗黒の木曜日に始まった世界恐慌により仕事がなくなってしまいました。ここから何年もカーンは苦境を味わうことになります。
しかしカーンは公共住宅で才能を発揮するようになり、フィラデルフィア住宅局顧問になると、その後はアメリカ合衆国住宅局顧問建築家に就任しています。戦中から戦後にかけてカーンは多くの公共住宅に関与し、さらにイエール大学で教鞭をとりました。73歳の時にペンシルベニア駅で心臓発作を起こして亡くなるまで、多くの作品を残しました。このように山あり谷ありの人生を送ったカーンですが、そのプライベートはドキュメンタリー映画「マイ・アーキテクト ルイス・カーンを探して」に詳しく出ています。
この映画はルイス・カーンの息子、ナサニエル・カーンが父の軌跡を追うドキュメンタリーですが、ナサニエルは父を知りませんでした。それは彼が11歳の時に父が亡くなったこともありますが、彼の母親はルイス・カーンの妻ではなく愛人だったという事情もあります。カーンは妻以外に2人の愛人がいて、それぞれに子供がいました。父親を知りたい想いでその足跡を追うのですが、タクシーの運転手から父親の女性の好みを教えられるなど、カーンの女好き具合は町中で知られていたことがわかります。
ナサニエルの母親が妊娠したことを知ったルイス・カーンの言葉「君もか・・・」に、彼の人柄がよく現れていると思います。女性は大好きだが家庭は顧みず、部下にも自身と同じハードワークを求めたので家庭が崩壊した部下も多かったようです。またビジネスは苦手で、多くの借金を残しました。映画はバングラディシュ国会議事堂を紹介して終わるのですが、「カーンは(バングラディシュが)世界一貧しい国だということも実現できるか否かも気にしていなかった」という言葉は、彼の仕事に対する考え方を表していたように思います。
嫌われる建築家
設計士によって違うのですが、中には建築技術に無頓着な人がいます。むしろ建築技術に詳しくなることで、創造性に限界が生じるので気にしないと公言する人もいます。そのため技術的に不可能な要求をする設計士もいて、現場で施工する人達の頭を悩ませることになります。現実の建設現場ではギリギリの工期の場合が多いので、検証に時間がかかるものは嫌われがちで、設計士と施工現場の溝が生まれるのです。
嫌われる建築士として「アンビルドの女王」と呼ばれたザハ・ハディドがいます。日本では東京オリンピックに向けた新国立競技場のコンペで、彼女の案が採用されて予算が膨らみ、猛烈な批判が巻き起こりました。そもそも「アンビルド(建設できない)」と呼ばれる通り、彼女は基本的に建設できないものを多くデザインしています。この国立競技場のデザインには、2本の特徴的な鉄骨のアーチがありました。これは真偽不明ですが、彼女はこれを1本ものの鉄骨で作ると発言したとされたため、そもそもこんな巨大な鉄骨を作れるわけがないと批判されました。当然ながらこのような設計は、現場の人からは激しく嫌われることになります。
建築の芸術性という議論
これは私見ですが、建築家が芸術性を求め出すと堕落すると思います。建築家や設計者であり、設計とはデザインを意味します。デザインの解釈は複数あるようですが、私は以下の記事で書いたように「デザインとは問題を解決する手段」と考えています。施主や社会が抱える問題の解決策として、建築家が設計するわけです。
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それでは芸術家は何をするのかというと、問題を提起するのです。社会や世相、人間の本質などに内在する問題を提起し、多くの人に訴える役割があります。つまり問題を提起するのが芸術で、問題を解決するのがデザインになるのです。設計(デザイン)と芸術は正反対の位置にあり、本来は同時に行うようなものではないのです。
また芸術とは自ら行うものであり、建築は施主の依頼によって行うものです。他人に依頼された仕事に、自らが考える問題を提起するようなメッセージを込めることは、施主によっては迷惑極まりない行為になります。このように建築と芸術は相反する性質のものであり、これを同時に行うのは愚行だと思うのです。建築家が芸術家を気取り出した時、その建築は利便性や快適性ではなく、理屈と説明に埋め尽くされていくように感じます。当然ながらこのような建築は、施工者にも施主にも好まれません。
まとめ
住宅は快適性を求めて進化し、快適性を確保すると同時に自由を失っていきました。優れた建築家の中には、その不自由さと戦う人がいます。そして建築家は現代の住宅の不自由さと戦うため、時にその思想は反社会的な面を含むことになります。そのため現場では嫌われることもありますが、こういったアプローチも必要なのだと思います。住宅の進化はこれからも続くでしょうし、さまざまな試みがこれからも続くでしょうから、その中で建築家がどのように関わっているかを見るのも面白いと思います。