姉歯事件とはなんだったのか /構造計算書偽装問題
2005年に発覚した姉歯設計士による構造計算書偽装問題は、建設・不動産業界を震撼させただけでなく、社会全体に大きなインパクトを与えました。当時、私はデベロッパーの品質管理室にいたため、この問題に何ヶ月も振り回されましたし、多くの業務が止まってこの問題にかかりきりになってしまいました。そこで今回は改めてこの問題が何だったのか、そしてこの事件を機に何が変わったのかを解説したいと思います。
事件の発覚
2005年11月17日、国土交通省の公表により事件が発覚します。国交省がマンション20棟、ホテル1棟の計21棟の耐震構造計算書に偽装があったことが発覚したと発表したのです。当然ながらこの問題は大きな衝撃を呼び、やがて建設・不動産業界は蜂の巣を突いたような大騒ぎになりました。
耐震構造計算書は、建物の強度を確保し、地震などによって倒壊しないように法律通りに作られているかを計算したものです。この計算書が偽装されたということは、地震でマンションやホテルが倒壊するかもしれません。そのため国交省発表に該当するマンションやホテルだけでなく、全国のホテルやマンションに不安が広がりました。
事件発覚の経緯
2005年10月、木村建設が施工しているマンション「グランドステージ北千住」で、担当者が鉄筋量が異常に少ないことに気づきました。そこで設計を担当したアトラス設計に確認を求めます。アトラス設計は構造設計を担当した姉歯設計士に確認を求め、そこで構造計算書が偽装されていることが発覚します。
10月18日、木村建設は民間確認検査機関イーホームズに事の概要を説明しました。さらに木村建設は、10月27日に「グランドステージ北千住」の施主であり売主でもあるヒューザーの小嶋進社長に連絡して、木村建設、姉歯設計士、ヒューザー、イーホームズで話し合いがもたれます。小嶋社長はことの経緯を姉歯設計士に問いただしますが、ほとんどしゃべらないため、この時点で事件の全貌は良くわからないままでした。イーホームズが国交省にことの次第を報告し、国交省でも話し合いがもたれます。国交省はこれ以外にも偽装が行われた物件がないか調査を求め、マンション20棟、ホテル1棟の計21棟に偽装が行われた事実がわかると11月17日に公表しました。
マンション建築の流れ
ここまで読んだ方の中には、登場企業や人物の関係がわからないという方も多いと思います。そこで関係者と業務の流れを整理したいと思います。
①建築が承認されるまでの流れ
マンションを建設して販売するには、まず建設する土地を購入する必要があります。この場合、ヒューザーが土地を購入します。そしてヒューザーに依頼されたアトラス設計が、設計図を描いて建築確認を申請します。建築確認とは「この土地にこういう建物を建てても良いですか?」と都道府県知事に尋ねることです。
本来は役所が審査を行うのですが、今回は民間確認検査機関イーホームズが役所に代わって審査をしました。審査の結果、問題ないと判断されると建築しても良いという結果が伝えられます。これを建築確認下付と言い、これで工事を行うことができます。つまりマンションを建てて売る人がヒューザー、そのマンションを設計するのがアトラス設計、そして建築の許可を出したのがイーホームズになります。
②マンション設計の内訳
マンションの設計は一級建築士事務所が行います。マンション設計は大きく分けて4種類あり、それぞれ専門性が高い作業になります。
意匠設計:マンションの形状や間取りなどを設計します。
構造設計:マンションが地震などで壊れない強度を保つ設計です。
電気設備設計:マンション内の電気に関する設計です。
給排水衛生設備設計:水道や排水などを設計します。
これら全てを1つの設計事務所が行うこともありますが、多くの場合は専門の設計士に依頼をします。この件ではアトラス設計が意匠設計を行い、アトラス設計に依頼された姉歯設計士が構造設計を行っていました。
③マンション建築の流れ
建築確認が下付されたら、建設会社が工事を開始します。今回は木村建設が工事を行いました。そして設計事務所は、設計監理者として工事をチェックします。設計監理者は、工事が正しく行われているかチェックするとともに、どのように工事をするべきか建設会社が悩んだら相談を受けることもあります。アトラス設計が、設計監理者になっており、木村建設が鉄筋量が少ないと気付いてアトラス設計に相談したのはこのためです。
相関図
このような関係を図示すると、以下のようになります。ややこしいですが、この関係がわからないと、この事件は登場人物が多すぎて分かりにくくなってしまいます。
そしてこの関係が分かると、木村建設にとってもアトラス設計にとっても、ヒューザーはお客様だという事がわかります。ヒューザーは仕事をくれるお客様で、ヒューザーから設計料や工事費が支払われています。この事から、後に各社はヒューザーの言いなりになっていたのではないか?という憶測が飛び交うことになりました。
不足した危機感
「グランドステージ北千住」の偽装が発覚した後、ヒューザーの小嶋社長はイーホームズに対して、他の建築確認申請中のマンションや、竣工を控えたマンションの建築確認や検査済証を予定通り出すことを依頼しています。小嶋社長にとって、問題は「グランドステージ北千住」の一件だけと考えていたようで、その他の事業は予定通りに行えると考えていたみたいです。
しかし偽装が一件見つかれば、他でも偽装の可能性があるためイーホームズは難色を示します。一説によると小嶋社長は、この時に予定通り認証しないなら他の検査機関に替えてイーホームズを告訴するとまで言ったそうです。そもそも関係者が一同に会した時、全員が自分を被害者だと思っていました。ヒューザーの小嶋社長は、悪いのは偽装した姉歯建築士であり、姉歯に依頼したアトラス設計です。そして偽装を見抜けず確認申請を下付したイーホームズも同様だと思っていました。アトラス設計は自分達も姉歯設計士に騙された側だと思い、木村建設は自分達は偽装に気づいただけで、工事がストップして迷惑だと思っていました。
イーホームズは、膨大な量の構造計算書の一部の数字を差し替えられても同じソフトウェアを使って再計算するしかなく、そのような方法は役所でも採用していません。これまで建築確認はプロがキチンとした仕事をする前提、すなわち性善説で行われていたので、このような大胆な偽装を見抜くことができませんでした。そのためイーホームズも自分が悪質な設計士に騙された被害者だと思っていました。そして姉歯設計士は、後に木村建やヒューザーからコストダウンの圧力を掛けられたと主張しており、自分が被害者だと思っていました。こうして全員が自分を被害者だと思って協議したため、最大の被害者のことが忘れ去られていました。マンションを購入した人たちです。
国交省が公表する前の10月28日に、「グランドステージ藤沢」が購入者に引き渡されました。まだ誰もこのマンションが耐震偽装されているとは知りませんでしたが、一件の偽装が見つかれば他にもあるかもしれないという危機感があれば、引渡しは防げたと思います。さらにヒューザーの小嶋社長はメディアに出た際に、当時話題になっていた堀江貴文氏が「ホリエモン」と呼ばれていることに倣って自らを「オジャモン」と呼んで欲しいと発言して顰蹙を買い、メディアを完全に敵にまわしてしまいました。
日本を揺るがす騒動に
恐らくですが、国交省も偽装された物件を発表して是正させれば解決すると思っていたはずです。しかし自宅のマンションが地震で倒壊するかもしれないというニュースは、世間に大きな衝撃をもって受け止められました。多くの人が自分のマンションも姉歯設計士が関与していないか心配しました。しかし一部のメディアは、役所が行うべき建築確認を民間でもできるようにした法改正に問題があったと報道しました。
民間企業は役所と違って利益を上げなくてはならないので数をこなす必要があり、検査の精度が落ちていたのではないかという考えです。そして国民の不安に押されて国交省が調査を続けたところ、姉歯設計士が担当した物件以外からも偽装が発覚しました。偽装というよりミスと言える程度のものもありましたが、建築基準法の基準を満たしていないのは事実であり、これで姉歯設計士とは無関係に全国のマンションが危険だという意識が広がってしまいました。
そして政治家もこの問題の解決に向けて動き出し、関係者を国会に誘致する事が決まりました。証人喚問です。ヒューザー社長、イーホームズ社長、木村建設社長と東京支店長が参考人招致されましたが、姉歯設計士は欠席しました。ここでヒューザーの小嶋社長は全責任は国交省にあると持論を展開して、怒りを滲ませました。メディアは連日トップニュースで構造計算書偽装問題を報じ、自身が住むマンションに不安を覚える人が急激に増えていきました。多くのマンションデベロッパーに、自分が住んでいるマンションは大丈夫かという問い合わせが殺到して、その処理に忙殺されることになります。
構造計算書偽装とは何なのか
建物を建築する際に構造計算が必要だと先に書きました。建物が倒壊しないようにする力は耐力と呼ばれますが、これは建築基準法で決められています。この耐力を求めるには構造計算が必要になります。構造計算は以前は手書きの筆算で行われていましたが、現在ではコンピューターで行われています。
コンピューターから弾き出された構造計算書は分厚く、数字が大量に延々と書かれているもので、構造設計士以外の人が見ても何を意味するのか全くわからない代物です。本来は確認申請の時に構造設計士が、その数字を延々と追って問題ないか確認しているはずですが、ちょっと数字を変えられただけでは気付くのが難しいと思われます。しかし姉歯設計士はその数字を意図的に変えて、本来は耐力が不足しているのに足りているように見せかけたのです。
これにより柱や梁が細くなったり、コンクリートの強度が低くなったり、鉄筋の本数が少なくなります。耐力が低いと地震などの外部の力によって倒壊する可能性も出てくるので、極めて危険な状態になります。そしてこの偽装は、ちょっと見るだけではわかりにくいのです。
注目を集めた「きっこの日記」
偽装問題に世間が揺れる中、「きっこの日記」というブログが注目を集めました。フリーのヘアメイクアーティストを自称するきっこが書いているブログで、構造計算書偽装に揺れる複数のホテルに、経営コンサルタントの総合経営研究所が関与しており、このコンサルタントこそが構造計算書偽装問題の黒幕と名指ししていました。まだどのメディアも総合経営研究所を報じておらず、複数のメディアが総合経営研究所を調べました。
すると総合経営研究所の内河社長は徹底したコストダウンを図る経済設計の提唱者で、木村建設とは蜜月関係にある事がわかりました。ホテルで成功したコストダウンの手法をマンションにも利用し、確実に利益を出すコンサルティングを行っており、それが構造計算書偽装の原因ではないかと言われます。メディアも知らなかった事実を知っていたきっことは何者なのか?事件の関係者なのか、どこかの記者の覆面記事なのか、世間の注目が集まりました。
イーホームズの社長や政治家もきっこに接触を図り、「きっこの日記」が更新される度に注目されました。こうしてこの事件は無名のブロガーに振り回されることになるのですが、きっこの正体は事件関係者でも記者でもなく、単なる噂話好きなブロガーだったようです。そのため真偽不明の情報が多く、なんの確証もなく思い込みだけで書かれたものも多数ありました。しかしこのブログが注目を集めたため、多くの人が振り回され困惑する人が多くいました。姉歯事件は素人の思い込みが社会を揺るがしたという意味でも、象徴的な事件だったと思います。
確認申請の民間委託が元凶か?
1999年に建築基準法が改正され、確認申請が民間でできるようになりました。それまで確認申請は役所の建築指導課などに提出し、建築主事が確認を行なっていました。建築主事は、市町村長や都道府県知事から任命された建築基準適合判定資格者検定に合格した公務員です。この建築主事の仕事を民間でもできるように法改正がされました。
なぜ民間でもできるようになったかというと、2つの理由があります。1つは建築確認申請の数が増えたため主事が処理しきれなくなり、申請から下付まで大幅に時間が掛かるようになったことです。2つ目の理由は、建築技術の専門化していき、主事の能力では判断が困難な例が増えたためでした。
建築関係者の多くは、民間への解放を歓迎しました。なにせ90年代末には確認申請を出してから下付までに何ヶ月も掛かる事が増え、いつ着工できるかわからないなんてこともありました。また建築指導課の若い担当者が、知識や経験が不足しているため訳のわからないことを言い出すことも珍しくありませんでした。そんな時は高齢の設計事務所の先生が「まあまあ」となだめつつ、担当者のプライドを傷つけないように諭していて、それが設計事務所の腕の良さになっていました。
建築確認申請は非効率で時間ばかりが掛かっており、民間に解放したことにより下付のスピードは速くなりましたし、腫れ物に触れるように担当者をなだめる必要もなくなりました。ですから、多くの建築関係者は民間解放を歓迎したのです。しかし営利を目的とする民間企業は多くの仕事を早く済ませなくてはならず、チェックが甘くなることもあったのかもしれません。確かに民間解放が原因かと言われれば全否定することは難しいのですが、民間解放は良い面も多かったのです。
関係者の逮捕
2006年4月、警視庁は関係者の逮捕に踏み切ります。姉歯設計士、ヒューザー社長の小嶋氏、イーホームズ社長、木村建設社長、木村建設東京支店長が逮捕されましたが、全て構造計算書偽装とは関係ない別件逮捕でした。とりあえず身柄を抑えて、逃亡できないようにしたようです。
後に裁判でほとんどの人が有罪判決を受けたため、これらの人達が共謀して構造計算書偽装を行ったように思われていますが、実際には構造計算書偽装とは異なる内容で有罪を受けています。木村建設は粉飾決算で別件逮捕され、こちらは有罪になっていますが、構造計算書偽装との関係は認められませんでした。イーホームズも確認申請を行う指定機関業務を国に取り消され、裁判でも有罪判決が出ていますが、確認検査業務に過失はなかったとして結審しています。
最終的に構造計算書偽装は姉歯設計士が単独で行ったことが裁判で明らかになっています。その動機としては「金を稼ぐために人命より優先した」「優秀な設計士としての名誉を維持したかった」といった、自分勝手な理由を述べてマンション住民の怒りを買っていました。姉歯建築士は懲役5年罰金180万円の実刑判決となりました。
再発防止に向けて
この事件で最も大きく揺らいだのは、建築士に対する信頼でした。建築士が自身の欲を満たすために構造計算書を偽装したことで、建築士の在り方そのものが問われました。そのため国土交通省は審査の厳格化を錦の御旗にして、改革を行います。しかしこれが混乱を巻き起こしました。
目玉となったのはピアチェックと呼ばれる、構造計算適合性判定制度です。従来は確認申請が出されると建築主事か指定確認審査機関が審査をしますが、一定以上の規模の建物はその後に専門家による審査を受けるのです。しかし事件を受けてのバタバタの改訂だったため、国交省の作業も遅れて技術解説書の配布は法改正後でしたし、ピアチェックを行う人の数も少なすぎました。書類も増えたため建築士の仕事が増えていきました。
その結果、2007年6月に法が施工し、7月の新規着工戸数は前年比で20%、8月の着工戸数は前年比で40%ダウンになりました。確認申請の遅れが出ているため、着工できなくなったのです。あまりに手間がかかり、下付までに時間がかかり過ぎることが問題になり、11月に国交省は緩和策を打ち出してなんとか落ち着きを取り戻しました。改革の船出は大きな混乱と共に始まり、現在でもこの時の方針に従って行われています。また建築士の資格も厳しくなり、試験の難易度が上がったと言われています。
まとめ
姉歯建築士による構造計算書偽装問題は、裁判の過程で姉歯建築士が自分勝手な欲望のために行ったことを証言し、多くの人の怒りを誘いました。これにより建築士への社会的信頼は失墜し、全国のあらゆる建物への不信感が広がりました。現在では、国土交通省が制度を見直して運営されていますが、見直した当初は厳しくしすぎたために多くの工事が着工できずに新たな混乱も発生してしまいました。当時は偽装問題に関してちょっとしたパニックが起こっていて、デベロッパーにいた私はそれに振り回されていました。次回は、構造設計問題の最中に、デベロッパーが何をしていたのかを書いてみたいと思います。