大洋デパート火災の余波 /高層建築物の防火対策を変えた事件
1973年11月29日に熊本県で発生した大洋デパート火災は、その後の消防法に大きな影響を与えました。現在のマンションの消防基準も、この火災とは無縁ではありません。私はこの時期に熊本県に住んでいたので、幼いながらもこの火災は強烈な印象があったのでよく覚えています。そこで今回は大洋デパート火災とはどんな火災だったのか、そしてそれが消防法にどのような影響を与えたかを書いてみたいと思います。
大洋デパートとは
熊本県熊本市中央区に位置するデパートで、当時の熊本県では最も高級品を扱うお店だったと思います。熊本市内で買い物をする時には鶴屋デパートや長崎屋もありましたが、大洋デパートはちょっとした特別な買い物をする店でした。また当時はデパートに行くとなると、他所行きの服を着てお洒落をして出かける時代です。今のデパートのイメージより、はるかに特別な場所だと認知されていました。
1952年に創業した大洋デパートは、地下1階地上9階の鉄筋コンクリート造の建物で、熊本市内の中心部に位置していました。また当時のデパートは文字通りの百貨店だったため、ファッションビルと化した現在のデパートとは異なり、家具や家電、子供用のおもちゃなど幅広い商品を揃えていました。最上階は当時のデパートのお約束である食堂街で、屋上には遊具もあったと記憶しています。子供にとってデパートは上階に行けば行くほど夢の場所で、私は食堂でウエハースのついたアイスクリームやパフェを食べるのが楽しみでした。
火災の発生と経緯
初期消火活動の失敗
1973年11月29日の13時頃、従業員が階段から煙が出ているのを発見します。すぐに複数の従業員が駆けつけたところ、2階から3階の階段踊り場に置いてある段ボールから出火していることがわかりました。従業員らは消火ホースで消火を試みますが、水圧が足りずに水がチョロチョロと出るだけでした。そこで1階からバケツリレーで消火に当たることになりました。しかし火の手の勢いは激しく、鎮火するどころか火の手は拡大していきます。
そこで従業員らは階段室の防火シャッターのボタンを押します。防火シャッターは稼働しましたが、階段には多くの段ボールが積まれていたため、シャッターが降り切ることはできませんでした。そうこうしている間に、火の手は3階に到達します。後の証言によると、3階のフロア責任者はこの時点で消防に通報したと言っています。しかし消防には連絡が来ていませんでした。フロア責任者の勘違いか、フロア責任者が誰かに通報するように指示したのに徹底されなかったのかはわかりません。
有毒ガスの充満
3階は寝具売り場でした。その寝具に火が移り、布団に引火したことで炎は一気に勢いを増していきました。これにより停電が発生しました。窓の前には商品ディスプレイがあったため、館内は昼間にも関わらず真っ暗になってしまいます。館内の客や従業員は慌てて逃げようと階段に殺到しますが、階段には商品在庫の段ボールが溢れて人が通り抜けるのは困難でした。そのため階段には多くの人が渋滞して立ち往生することになります。さらに寝具などの商品の多くは化学繊維でできていたため、有毒ガスが充満していきます。
巨大な煙突となった大洋デパート
3階の炎は激しくなり、有毒ガスを撒き散らします。その有毒ガスは階段に流れていき、階段を伝って上階へと流れていきました。また炎も階段の段ボールを燃やしながら上階に向かっていきます。階段は煙と有毒ガスが溢れる煙突のようになり、そこに避難する人が殺到したため、立ち往生している人々を煙と有毒ガスが襲いました。さらに炎も階段に置かれている段ボールに燃え移り、炎が階段を襲いました。階段が巨大な煙突となり、一気に炎が上階に伝わることになります。火災の鎮火後に、消防隊は階段で多くの犠牲者を発見しています。
消防隊の到着
3階の炎が大きくなり、一部の従業員は館内放送を行って避難を促すことを考えます。しかし館内放送には上司の許可が必要で、その上司が見つかりませんでした。そのため館内放送は行われず、上階では避難が遅れることになります。また消防への通報ですが、傍観者効果(誰かが通報しただろうと考え誰も通報しないこと)により、従業員は誰も通報していませんでした。さらに通報しようにも、既にできなくなっていました。電話交換手の部屋からは3階が見えるため電話交換手が避難しており、館内の電話で119番通報ができなくなかったのです。
この頃には煙が建物の外にも溢れ出し、異常を感じた向かいの理髪店の店主が119番通報を行いました。炎の勢いが増す中で、消防隊の出動が遅れました。そのため消防が到着した際には、かなり延焼が広がっていて消火活動が困難な状態になっていました。さらにスプリンクラーなども稼働していませんでした。消防隊は客と従業員が逃げ惑う真っ暗な館内に、消防ホースを持って突撃することになります。当時のニュース映像にも、ホースを持って止まったエスカレーターを駆け上がる消防士の姿がありました。
屋上への脱出
上階にいた一部の従業員は、広がる炎を見て階段で下に向かうのは危険だと判断して上に向かうように客を誘導しました。こうして60名の従業員と70名の客、合計130名の客と従業員が屋上に脱出しました。屋上から大勢が声を上げて救助を求める中、屋上は白煙に包まれていきます。消防隊のハシゴ車が出動し、屋上からの救助を行いました。しかし煙はすぐに黒煙に代わり、有毒ガスが屋上を襲ったため全員の救出は叶いませんでした。
屋上に避難した人の一部は隣のビルの工事用足場に逃げ、煙を吸いながら足場に捕まって救助を待ちました。途中から風向きが変わり、避難者たちは煙に包まれますが、彼らは必死に足場にしがみついて救助を待ち続けました。最終的に25人が足場から救出されています。
火災の原因と裁判
最終的に消火には8時間を要し、死者104名、負傷者124名という最悪の火災になりました。百貨店火災としては日本史上最悪であり、この火災はその後にさまざまな影響を与えました。そのため警察の捜査も長期間に及びます。そして出火場所は階段の2階から3階の踊り場と特定され、踊り場にあった段ボールか出火したことがわかりました。しかしその出火原因については、従業員のタバコの不始末や漏電による出火や工事の火花などさまざまな要素が検証され、結論が出ませんでした。
しかし大洋デパート火災の本当の問題は、出火原因ではありませんでした。なぜ消火ホースの水が出なかったのか、なぜ消防への通報が行われなかったのか、なぜスプリンクラーは稼働しなかったのか、なぜ防火シャッターは閉まらなかったのかなど、建物の管理運営が大問題となったのです。大洋デパートの社長、役員、営業部長、営繕課長らが業務上過失致死の疑いで逮捕され、この後17年間に渡って最高裁まで争われます。無罪→逆転有罪→無罪と判決は揺れていき、防火責任の在り方に多大な影響を与えることになりました。
煙突効果
大洋デパート火災では、煙突効果が注目されました。先にも書いたように、階段が巨大な煙突となり有毒ガスと炎を上階に運ぶ役目を果たしました。本来は防火シャッターで階段は隔離されるので階段内部だけに煙が止まり、延焼も階段ないだけで済みます。しかし防火シャッターが機能しなかったため、階段が巨大な煙突として機能してしまったのです。3階から8階までが全焼したのは、この階段による煙突効果によるものが大きかったのです。
法改正の動き
大洋デパート火災の前年にあたる1972年には、千日デパート火災が大阪で起こっていました。この火災は118名が亡くなる大火災でした。さらに大洋デパート火災が続けて起こったため、大規模建築物への防火対策の見直しは急務になっていました。これまでも火災が起こるたびに防火対策が見直されてきましたが、古い建物は以前の防火設備のままになっていました。そこで特定防火対象物に対する 消防用設備等の遡及(そきゅう)適用が決定しました。
遡及とはさかのぼって適用することを意味し、法律の大原則として法は遡及しないこととされています。仮に万引きが無期懲役になると法改正された場合、過去の万引き犯を改めて無期懲役にして刑務所に入れることはできません。法が遡及すると、現在では合法であっても遡って逮捕することが可能になってしまうので、法治国家が成り立たなくなってしまうからです。しかし消防法は、法を遡及させて適用させることにしました。古い建物であっても現在の法律の防火設備を適用させなければ、火災による大規模被害が防げないと考えられたからです。この意味で、消防法はあらゆる法律の中で特殊な法律と言えるでしょう。これを無視して大災害に発展したのが、ホテルニュージャパン火災です。
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大洋デパート火災の翌年の1974年に、全ての消防用設備等を既存の特定防火対象物に遡及して設置すること、消防機関が消防用設備の設置時に検査をする制度、そして定期点検とその報告を行う制度が決まりました。現在の防火設備の根幹になる部分が、この時に決まったのです。
まとめ
大洋デパートの火事は、さまざまな不手際と最新の防火設備が備わっていなかったため、未曾有の大惨事になりました。そのため関係者は業務上過失致死の疑いで逮捕され、最終的には無罪になりましたが長期の裁判を戦うことになりました。大洋デパート火災を契機に法改正が行われ、消防法は遡及して古い建物にも最新の防災設備を設置することになりました。また大洋デパート跡地は、2017年に複合商業施設COCOSAがオープンしました。現在も熊本市の経済の中心として存在しています。