ペントハウスの歴史 /成功者はなぜ住みたがるのか

2025年5月12日にNHKで放送された「ステータス」という番組の「♯3 ペントハウス」の制作にあたって、協力をさせて頂きました。この取材の前にモヤっとしていたペントハウスの歴史について、知識を整理したのでこのブログにも書いたみたいと思います。ペントハウスと言えば成功者のステータスのように感じますが、その歴史は悪ふざけと妥協によって生まれました。

ペントハウスとは

ペントハウスとは、マンションやホテルの最上階に作られた特別な部屋のことです。古いマンションではエレベーターの機械室になる塔屋をペントハウスと呼んだりしますが、ここでは最上階にある超高級住宅の話をします。物件によっては専用のエレベーターや専用のエントランスがあるなど、他の部屋とは一線を画するようになっています。当然ながら間取りも他とは異なり、仕様も特別になっていることが多くあります。

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ペントハウスの誕生

ペントハウスは、1920年代にアメリカのニューヨークで生まれました。時代は狂騒の20年代と言われる未曾有の好景気で、アメリカ全土が浮かれていた時代です。第一次世界大戦の終戦による開放感に加え、大戦でヨーロッパが経済的に疲弊したためにアメリカに資本が流れ込みました。株価が高騰して投資家が急増し、何の仕事をしているかわからないけどお金を大量に持っている人が次々に現れました。その当時の雰囲気はフィッツジェラルドの著書「華麗なるギャツビー」などに現れています。

禁酒法が施行されていたために人々はモグリ酒場で酒をあおり、ジャズに合わせて踊り、女性は家庭から解放されて化粧をして街を闊歩していました。そんな浮かれた時代に、ニューヨークのセントラルパークに建設された高級マンションは、フォーマルな使用人がいるアメニティサービスを宣伝しました。使用人らはマンションの屋上に専用の部屋を作って住み、いつでもサービスに応える体制になっていました。やがてマンションは高層化が進み、一部の住民達は使用人が住む屋上の眺望に魅せられるようになりました。

やがて彼らは使用人を追い出して、自分が住むようになります。こうしたブームの中、屋上に住むことを禁じていたニューヨーク市は、法律を改正して屋上に住めるようにしました。これがペントハウスの始まりになります。このようにペントハウスは使用人の住処として始まり、眺望に魅せられた金持ち達の気まぐれによって生まれたのです。かつて高い場所からの眺望は、かつては軍事施設の見張り台のように仕事場に過ぎませんでした。しかしこの時代に高い場所からの眺望は、ラグジュアリー(贅沢)に変わったのです。

マージョリー・メリウェザー・ポストの登場

1920年代のニューヨークは住宅価格が高騰し、特に高級住宅が飛ぶように売れていました。しかし限られた土地には瞬く間に集合住宅が建設され、多くの建設業者は戸建ての住民に家を売ってもらおうとしていました。特に大型の戸建て住宅を買取りマンションを建設すれば利益が大きいため、豪邸の買収提案があちこちで行われていました。その中に、ジョージ・フラー建設という会社がありました。彼らはゼネラル・フーヅの社長の娘、マージョリー・メリウェザー・ポストの豪邸を買収しようとしていました。

※マージョリー・メリウェザー・ポスト

ゼネラル・フーヅ社は1895年にC.W.ポストが設立したポスタム・シリアル・カンパニーが起源です。彼は1897年にシリアルを販売し、ケロッグ社と競合しました。アメリカ人の朝食の代名詞となるシリアル食品、コーンフレークなどをケロッグ社と二分する巨大企業へと成長していきます。そのC.W.ポストの娘がマージョリー・メリウェザー・ポストで、彼女はニューヨークの巨大な邸宅に住んでいました。そこで集合住宅の建設を手がけるジョージ・フラー建設は、彼女の自宅の売却を持ち掛けました。彼女の邸宅地に高級マンションを建設しようとしたのです。

しかしマージョリーは自宅を売却する気はありませんでした。しかしジョージ・フラー建設は彼女の邸宅地に14階建てのマンションを建設し、その上部3層をマージョリーの自宅を丸ごと再現することを提案して、売却に漕ぎ着けました。こうして1925年に高級マンションは完成し、マージョリーの自宅は専用駐車場に専用のエントランス、専用エレベーターが付く個人所有の初のペントハウスになりました。このペントハウスは話題を呼び、富豪がペントハウスを所有する流れを生むことになります。

技術革新の背景

こうして1920年代のニューヨークを中心に、高級住宅としてペントハウスは広がっていくのですが、これが実現するには技術革新と時代背景がありました。それらを紹介してみたいと思います。

(1)建築技術の発展

1856年イギリスのベッセマーが転炉法を発明し、鋼の工業生産ができるようになります。アメリカではアンドリュー・カーネギーが南北戦争後にユニオン製鉄所を創業し、鋼の大量生産が始まりました。1885年にアメリカでは鋼による最初の高層建築、ホーム・インシュアランスビルがシカゴに建設されています。現代の鉄骨造建築が19世紀末から始まり、アメリカで高層ビルの建設が20世紀初頭から始まるようになりました。さらにこれを後押ししたのが、鉄筋コンクリート造の発明です。

※アンドリュー・カーネギーとホーム・インシュアランスビル

1867年のパリ博覧会にフランスの植木職人のモニエが、内部に針金を入れたモルタル製の植木鉢を出品します。圧縮に強いモルタルと引っ張りに強い針金を組み合わせた構造で、これが鉄筋コンクリート造の始まりと言われています。アメリカではレンガ造が中心でしたが、20世紀初頭には鉄筋コンクリート造の建築があちこちで行われるようになりました。こうして1920年代には、高層建築物の建設が可能になっていたのです。

(2)エレベーターの進化

エレベーターの歴史は古く、古代ギリシャでも使われていました。しかし当時は人力のエレベーターで、一歩間違えれば落下する危険な乗り物でした。そして19世紀に蒸気機関の発展により自動化が進みますが、それでもメインのロープが切れたら1階まで落下する危険な乗り物であることに変わりはありませんでした。しかし1853年のニューヨーク万博にエリシャ・オーチスがメインロープが切れても落下しない安全装置を付けたエレベーターを発表したことで、人が乗っても安全な乗り物に変わりました。

関連記事:エレベーターの安全基準がどのように変わってきたのかを解説

さらに1903年に、カウンターウェイトを用いたエレベーターが発明され、今日のエレベーターの原型が出来上がりました。こうしたエレベーターの進化は、人が高層階に行くのを容易にして高層ビルの建設が可能になりました。それまで高層階というのは戦地の見張り場所のように、汗を流して階段や梯子で登るものでした。上り下りには体力と忍耐が必要で、限られた人しか上層階には行けませんでした。しかしエレベーターの進化は、子供も杖をつく老人でも簡単に上層階に行くことが可能になったのです。

(3)ニューヨークの人口増加

1863年にリンカーンの奴隷解放宣言が出されても、多くの黒人は仕事がないためアメリカ南部に留まっていました。しかし産業の発展とともに北部を目指す黒人が増え、1914年頃から南部の黒人が北部に大移動を始めます。「アフリカ系アメリカ人の大移動」と呼ばれるこの現象はニューヨークにも直撃し、1920年代前半のニューヨークの人口はロンドンを抜いて世界一になっていきます。前記した1920年代の好景気も相まってニューヨークには超高層ビルが立ち並び、急激な住宅不足が始まりました。そのため集合住宅が多く建設されることになります。

※1900年以降、NYの人口が急速に増加している

1920年代のニューヨークは人種のるつぼとなっていき、さまざまな人種が住む街になっていきます。そして同時に富裕層と貧困が入り混じるようになり、後にモザイク都市と呼ばれるようにあらゆる人種と階層が住む街へと変化していきました。禁酒法によりマフィアが急激に勢力を伸ばし、株式で大金持ちになる人が現れ、新たな商売が生まれ、それが新たな富を生みました。こうした中で富裕層はステータスシンボルとして眺望がよく安全なペントハウスを求めるようになっていきました。

ペントハウスの暗部

2022年4月20日、ニューズウィーク誌はニューヨークのペントハウスの多くが、匿名のダミー会社で契約されていることを報じました。アメリカの法制度は不動産購入者の権利保護の意識が強く、所有者を隠蔽することが簡単にできるのです。これは有名人のプライベートを守るためには役立ちますが、資産隠しや犯罪組織のマネーロンダリングなどにも有効です。特にロシアのオリガルヒ(新興財閥)の多くがダミー会社を通じて超高級ペントハウスを購入しているのは、不動産業界の公然の秘密になっているようです。

ロシアのプーチン大統領はオリガルヒの政治的影響力を奪いましたが、彼らの商売には口を出しませんでした。しかしロシアのウクライナ侵攻で世界中から批判が集まり、ヨーロッパではオリガルヒの資産凍結が相次いでいます。そんな中、安定した通貨のドルで取引が可能で、所有者の名前を隠せるアメリカの不動産は彼らにとって魅力的だったです。その中でもニューヨークのペントハウスは、高額なので資産隠しには打ってつけでした。実際、ニューヨークのペントハウスが高騰したのは、2011年にオリガルヒが相場より遥かに高値で購入したことから始まったとされています。

アメリカの法の抜け穴はオリガルヒや犯罪組織に巧みに利用され、今や犯罪者の温床になっていると批判されることもあり、さらに彼らの手によって高額になってしまっている一面があるようです。

有名なペントハウス

アメリカには多くの有名なペントハウスがありますが、その一部を紹介したいと思います。

(1)サンフランシスコのフェアモントホテル

1927年、金融家ジョン・S・ドラムがフェアモントにホテルの屋上にペントハウスを建てるよう説得して建設されました。彼は月に1000ドル(当時スゥイートルームの宿泊は1晩10ドルだった)を支払い、そこに住みました。ドラムの死後のペントハウスは一般客に開放され、予約をすれば誰もが泊まれるようになります。最も有名な宿泊客はジョン・F・ケネディで、マリリン・モンローとの密会に使われたことでも有名です。

トニー・ベネットなどの歌手、ブッシュ大統領親子、ビル・クリントンなど著名人が多く宿泊し、映画やドラマの舞台にも度々なっています。ヒッチコックの「めまい」や、「ザ・ロック」でショーン・コネリーが髪を切る場面ではここのペントハウスのバルコニーが舞台になっています。

(2)ニューヨークのシルクビルディング

1912年に織物工場兼住居として建設されましたが、1982年にマンションに改築されています。ローリング・ストーンズのキース・リチャーズが借りて、1フロアを住居にし1フロアをレコーディングスタジオとして使用していました。そのため多くのミュージシャンが出入りし、数多くのレコーディングが行われました。その後シェールが1990年まで住み、その後はブリトニー・スピアーズが住んでいます。ブリトニーは彼女の最大のヒット曲となった「Toxic(トキシック)」を、このペントハウスで作曲しています。

(3)ニューヨークのプラザホテル

1985年にプラザ合意が行われ、歴史の転換点にもなったプラザホテルにもペントハウスがあります。ヒッチコックの代表作「北北西に進路を取れ」やアル・パチーノ主演の「セント・オブ・ウーマン」などの舞台になったことでも有名です。ファッションデザイナーのトミー・ヒルフィガーが住んでいたことでも有名ですが、彼は2016年にここを売却しています。

まとめ

ペントハウスは1920年代のアメリカで生まれました。ローリング・トゥエンティーズと呼ばれる狂乱の時代に、金持ち達によって高い場所からの眺望がラグジュアリーに変わったのです。その背景には建築技術やエレベーター技術の向上がありました。現代でもペントハウスは成功者の象徴となっていますが、同時にアメリカの法律の抜け穴を巧みに利用し、犯罪組織の隠れ蓑としても機能しています。今後、超高額のアメリカのペントハウスがどうなっていくのか、注目していきたいと思います。

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