マンションの歴史 01 /明治時代の西洋建築

都心部を中心にマンションは大量に存在します。住宅を購入する際に、マンションにするか戸建てにするか悩む人は多いと思いますが、そもそもマンションはいつ頃から日本で広まり、どうやって発展してきたのでしょうか。そんな歴史をたどってみたいと思います。

西洋建築の始まり

1854年、ペリーが黒船で現れて江戸幕府と日米和親条約を結び、200年以上続いた日本の鎖国が終わりました。これまで外国とのやりとりは長崎だけで認められていましたが、この開国により神奈川、函館なども開港したので外国の人々が日本に大勢来るようになりました。そこでこれたの土地に、外国人向けの宿泊施設が必要になりました。幕府はお抱え外国人技師にホテル設計を依頼したのですが、問題は誰が工事をするかでした。設計は西洋建築だったのですが、西洋建築を建てた者など江戸時代にはいなかったのです。そこで幕府が民間で工事をするなら土地は無償提供し、利益も経営者のものとしてよしと通達します。これに宮大工の清水組(現在の清水建設)の二代目、清水喜助(きすけ)が名乗りをあげました。

※清水喜助

初の西洋風ホテル 築地ホテル館

駐日英国大使のハリー・パークスは、幕府に外国人向けの宿泊施設の建設を要請しました。そこで幕府は築地の軍事施設跡に築地ホテルを建築することを決定します。設計は横浜に建築事務所を開いていたアメリカ人、リチャード・ブリジェンスに依頼することになりました。そして工事は先に書いたように、清水喜助が請け負うことになります。アメリカ人が設計し宮大工が工事するこの難事業は、1867年9月に始まります。清水喜助は西洋建築の経験がなかったので、見よう見まねで工事を進めていきました。ところが着工から1か月ちょっとで幕府は大政奉還で天皇に政権を譲り、公共事業なのに発注者の幕府が政権を失いました。しかしそんなことに構うことなく戊辰戦争が始まって鳥羽伏見の戦いがあっても、将軍徳川慶喜により江戸城が無血開城されても、会津の白虎隊が飯盛山で自刃を決行しても清水喜助の工事は続きました。江戸が東京に改められ、戊辰戦争が集結して靖国神社が建てられた後、清水組による築地ホテル館はようやく完成します。1869年(明治2年)9月のことでした。

新手の神社と勘違いされる

築地ホテル館は二階建ての本館に三重塔が印象的な外観に、水洗トイレやビリヤード場を完備し錦絵が飾られた和洋折衷の建築で、工事中から東京の観光名所になりました。地方からの見物人は小銭を投げて柏手を打つありさまで、「ここは神社じゃなくて宿屋」と何度言っても小銭が投げられていたようです。見たこともない巨大な建築物を前に、多くの庶民は混乱していたのです。清水喜助はこの後も海運橋三井組(後の三井銀行)を和洋折衷で建設し、ここも観光名所になって小銭を投げて柏手を打つ人が絶えなかったといいます。

※海運橋三井組

疑洋風建築の始まり

こうして洋風の建物を宮大工が嗜好を凝らして作る和洋折衷の建物が流行し、疑洋風建築と名付けられました。実際に欧米を訪れて現地の建物を見学した宮大工もおり、当時ヨーロッパで流行したアールヌーボー様式を見よう見まねで宮大工が作る斬新な意匠もありました。ハイカラな和洋折衷建築ブームは10年以上も続き、やがて本格的な洋風建築を学んだ人たちの手によって、新たな洋館ブームが訪れます。

次回はモダン建築の始まりです。

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