マンションの歴史 03 /同潤会アパート

※青山アパートメント

1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災は、10万人以上の死者、37万棟以上の住宅に被害をもたらしました。死者のうち9万人以上が焼死であり、地震そのものよりも地震によって発生する火災被害の大きさを知らしめることになりました。この甚大な被害が、木造住宅が中心だった日本に大きな変革をもたらすことになります。

同潤会の設立

火災に強い住宅が必要だと感じた大日本帝国政府は、関東大震災の義援金の中から1000万円を支出して内務省に指示を出し、財団法人同潤会が設立されました。1924年のことです。メンバーは建築家を中心に選出され、東京帝国大学の内田祥三研究室で準備が行われました。内田は帝国大学で鉄筋コンクリートや鉄骨の講義を行っており、メンバーには同じく東京帝国大学の佐野利器などもいました。日本の鉄筋コンクリートの権威が内田研究室に集まり、地震や火災に強い住宅の研究が行われました。

彼らは耐震性、防火性の高い鉄筋コンクリートでの集合住宅を検証し、中間所得層が住めるアパートを目指すことになります。しかし建築コストの高い鉄筋コンクリート住宅に中間層を住まわせるという高い志が、同潤会を短命に終わらせたとも言えます。最終的には収益が合わないことが問題になり、事業を継続できなくなったからです。

中之郷アパートメント

1926年、苦労の末に同潤会第一号となる鉄筋コンクリート造の中之郷アパートメントが建設されました。関東大震災の復興のシンボルとして、大きな注目を集めたそうです。中庭を配した作りで、木造の集会所があります。水洗トイレ、ゴミ用のダストシュートなど、当時としては最先端の設備を導入した画期的なマンションで、官公庁の役人を中心に申し込みが殺到したといいます。庭がない集合住宅に中庭を設けたのが特に好評で、ラジオ体操などが行われ、公園設備では子供達が毎日遊んでいたそうです。

※中ノ郷アパートメント

賃貸アパートでしたが、太平洋戦争後に一般分譲されました。その後、1988年に老朽化のため解体されています。

続々と建設された同潤会アパートメント

中之郷アパートメントの成功は、同潤会を後押しして次々に建設が行われました。1934年竣工の江戸川アパートメントまで16棟が建設され、どのアパートメントにも様々な試みが行われています。店舗併用棟は中之郷アパートメントから行われましたが、代官山アパートメントでは銭湯が設置されました。

※清砂通りアパートメント

住利アパートメントではアーチ回廊を実現し、清砂通りアパートメントでは螺旋階段を持ち込みました。大塚女子アパートメントにはエレベーターが搭載されました。その地域の住まいを研究して設計されたので、全ての同潤会アパートメントが異なる個性と特徴を持ちました。和と洋の融合といつテーマは一貫していましたが、様々なタイプの集合住宅が実験的に建設されていき、その全てが高い評価を受けました。

同潤会の解散

同潤会の最大の問題は、コストの高い鉄筋コンクリート造に加えて、最新設備をふんだんに盛り込んだため、住人の家賃では建築費を回収できないことでした。ほぼ全ての同潤会アパートメントは赤字経営で、それが実現できたのは政府主導の事業であり、耐震性・耐火性の高い住宅を供給する国策があったからです。

しかし世界は第二次世界大戦に突入し、日本も戦時体制になると、同潤会のように赤字を出し続ける政策は難しくなりました。政府は新たに住宅営団を発足させると、同潤会の業務を引き継がせました。1941年に同潤会は解散しました。

同潤会アパートメントが残したもの

東京大空襲により東京は火の海に包まれて、壊滅的なダメージを受けます。しかしその炎の中でも同潤会アパートメントは生き残り、当初の目的であった高い防火性が実証されました。

優秀な建築家を集めて徹底的に検証し、コストを気にせずに先進性のある安全で親しまれる集合住宅の建設は、民間では不可能だったでしょう。同潤会アパートメントての多くの試みは、戦後のマンション建設に決定的な影響を与えました。日本初の分譲マンション、宮益坂アパートメントも、同潤会がなければもっと違った形になったでしょう。

次回は分譲マンションの誕生です。

マンションの歴史 01 /明治時代の西洋建築
マンションの歴史 02 /モダン建築の始まり
マンションの歴史 03 /同潤会アパート
マンションの歴史 04 /天国の100万円アパート

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