日本初の住宅ローンを始めた男 /小林一三の生涯

住宅の歴史を調べていると、何度も小林一三の名前を見かけました。住宅ローンを日本で最初に始めた人物として語られており、日本を代表する実業家でもあります。小林が残したものは今でも多く存在しており、経済や文化にさまざまな影響を与えています。そこで今回はどうやって住宅ローンが生まれたのか、そして小林一三とはどういう人物だったのかを書いてみたいと思います。

誕生から大学卒業まで

小林一三は明治6年(1873年)1月3日に山梨県巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)に生まれました。生まれた日にちなんで一三(いちぞう)と名付けられています。実家は裕福な商家でしたが、生後すぐに母親とは死別しています。さらに父親とも生き別れとなり、叔父夫婦に育てられました。叔父夫婦も裕福だったようで、加賀美嘉兵衛の私塾に通っています。そこから上京して福沢諭吉の慶應義塾に通い、寄宿生として生活をしていました。本が好きで小説家になるのが夢だったらしく、慶應在学中に山梨日日新聞に小説を連載しています。小説家への第一歩として都新聞(現在の東京新聞)への入社を希望しますが、これに失敗しています。結局、慶應義塾を明治25年(1892年)に卒業すると三井銀行に就職しました。

耐え難き憂鬱の時代

しかし小説家の夢に頓挫した小林には、勤労意欲が全くありませんでした。入社時期が来ても銀行には行かず、熱海の温泉宿に女性を連れ込んで遊んでいました。周囲の説得で東京に戻りますが地方新聞に小説を書いて送る生活を続けており、再び知人の強い説得を受けてなんとか銀行に出社するようになりました。しかし銀行員としての生活は、小林にとって退屈なもので、後にこの時代を「耐え難き憂鬱の時代」と語っています。それでも34歳まで勤めており、東京本店の調査課主任になっています。すでに結婚していた小林は銀行でのこれ以上の出世はないと見限っており、家族を食べさせるために働いていたとも言います。

その後、三井物産の飯田義一や北浜銀行の岩下清周に誘われて大阪で設立予定の証券会社の支配人になるため家族と共に大阪に移り住みます。しかし世界恐慌の発生により証券会社の話はなくなり、大阪で失業者になってしまいました。身寄りもいない大阪で、家族を抱えて失業者になった小林は路頭に迷うことになります。しかし阪鶴鉄道が計画していた鉄道の話を聞きつけ、計画地を歩いて回ることにしました。そしてこの沿線に高い将来性があることを感じました。ここから小林の人生は一変することになります。

箕面有馬電気軌道の設立

阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)は、本線とは別に大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬へと抜ける鉄道を計画していました。しかし鉄道法の施行により阪鶴鉄道は国有化され、さらに世界恐慌の発生によりこの事業は窮地に追い込まれていました。鉄道建設の認可は降りていたのですが、この沿線は人家が少なく、鉄道として採算が取れるか怪しいもので、世界恐慌後では多額の出資を嫌って出資者も集まらない状態になっていました。しかしこの沿線地を何度か歩いた小林は将来性があると感じ、箕面有馬電気軌道の発起人会に参加します。

問題は鉄道を敷く資金がないだけと知った小林は、すぐに北浜銀行の岩下に連絡し、この沿線の将来性を力説します。そして北浜銀行から融資を取り付けると岩下を社長に、小林を専務にした箕面有馬電気鉄道を設立しました。1907年(明治40年)のことでした。こうして人家のない沿線である箕面有馬電気軌道は、線路を敷いて鉄道を走らせるべく動き始めました。しかし多くの人はこの事業に懐疑的で、人がいなければ電車は儲からんと冷めた目で見ていたそうです。

住宅ローンの発明

当時の常識として、鉄道は移動したい人が集まる場所に敷設するものでした。需要があるところに鉄道を敷設するのです。しかし小林は鉄道を敷設することで需要を生むことを考えていました。鉄道の駅周辺の池田新市街を買収し、そこを宅地造成して販売することにしたのです。現在の郊外型住宅の考え方で、都市部ではなく郊外に住んで電車通勤をするというわけです。さらに当時は土地や家を買う際には一括払いが一般的でした。しかし小林は費用の2割を払い、残りの8割を10年かけて月賦で支払い、完済すれば所有権を移転するという方法で販売することにしました。これが日本初の住宅ローンと言われています。

これによりまとまった資金がない勤人(サラリーマン)であっても、住宅を購入することが可能になりました。さらに郊外のため価格が安く、庶民にも手が届く金額を設定することが可能でした。現在では鉄道が通れば地価が上昇するのは当たり前ですが、当時としては画期的な逆転の発想でした。そしてこれが見事に当たり、駅周辺の宅地は売り切れが続出することになります。小林は北浜銀行の岩下に対し、万が一鉄道で採算が取れなくても宅地販売で利益が出ると説明していたようです。しかし当初の小林の目論見通り、宅地が売れて乗客が増えて鉄道も利益を出すことができました。そして小林は沿線の土地を次々に買収し、宅地として販売して莫大な利益を生み出していきました。これにより鉄道の利用者も増大し、今でいうシナジー効果が生まれていきました。

娯楽施設の建設

小林は鉄道沿線に娯楽施設があることが鉄道の売上につながると考えました。そこで1911年に箕面に動物園を建設し、さらに宝塚に温泉が湧くことを知ると宝塚新温泉を建設しました。これにより箕面有馬電気軌道沿線に住む住民が休みの日も積極的に電車を利用するようになり、さらに遠くからも人が集まって鉄道を利用することになりました。娯楽施設の成功は小林を駆り立て、梅林しかない寒村の宝塚に音楽隊を結成することになります。1914年に宝塚唱歌隊が結成され、この唱歌隊も専門家を招いて本格的な音楽とショーを導入することで高い人気を得るようになりました。これが今日の宝塚歌劇団になります。当初の宝塚歌劇団は、宝塚新温泉に来た来場者向けのショーを行うために設立されたのです。

このように小林は沿線に住宅と娯楽施設を矢継ぎ早に建設していき、人とお金を一気に集めることができました。次々と事業を成功させた小林は沿線を神戸方面へと拡張することにしました。これを機に会社名を阪神急行電鉄と改名し、現在では阪急の略称で親しまれることになります。止まることを知らない小林は、昭和4年(1929年)には梅田に阪急百貨店を開業しています。鉄道会社直営のデパートという世界的にも珍しい試みに周囲が不安視していましたが、これも成功させました。これ以降、電車で行けるデパートが鉄道会社によって多数建設されることになりました。

さらなる事業の拡大

阪急デパートが開業した1929年には、神戸市灘区に六甲山ホテルを開業させてホテル事業に進出します。鉄道会社経営のホテルというのも疑問視されていましたが、次々にホテルを開業させて経営を安定させることに成功しています。同じく1929年には野球にも進出して宝塚運動協会を設立しました。さらに1932年には東京宝塚劇場の開業、1937年に東宝映画を設立して事業を拡大させていきます。小林は娯楽に高い可能性を見出しており、宝塚運動協会は失敗したものの1936年には大阪阪急野球協会を設立しています。これが後のプロ野球球団、阪急ブレーブスとなりました。1934年に小林は阪急グループを退任するまで、数多くの事業に進出してその多くを成功させています。

政界への進出

阪急を退任した小林一三でしたが、その後も精力的に活動を続けています。経営破綻寸前の東京電燈の社長に就任して経営を立て直したり、松竹の社外取締役として働きました。さらに近衛文麿とのパイプから、1940年に近衞内閣の商工大臣にも就任しています。しかしここで岸信介と激しく対立し「岸信介は共産主義者だ」「小林は軍族だ」と激しい舌戦を繰り広げて、両者が辞任する騒動にまで発展しました。戦後はGHQによる公職追放などで政界への復帰は叶いませんでしたが、東宝の社長に就任するなど晩年も精力的に活動していました。

ひ孫はあのテニス選手

小林は元芸者の妻、こうとの間に3人の息子と2人の娘に恵まれました。長男と次男が東方の社長を務め、三男が阪急の社長を務めています。次男は大学卒業と同時に松岡汽船創業者の松岡家に養子入りしており、その次男の息子が日本代表にもなったテニスプレイヤーの松岡功です。松岡功はテニスを辞めて東宝に入社し、後に東方の社長を務めています。松岡功の長男は東宝に入社し、同じく東宝の社長を務めました。しかし次男はテニスに取り憑かれて慶應義塾高等学校から福岡の柳川高校に転校し、プロテニスプレイヤーの道を歩みました。次男にも東宝の発展に尽くして欲しかった松岡功は次男坊のわがままに、一切の金銭的援助をしないことでプロ選手になることを認めました。その次男坊がウインブルドンでベスト8まで進出し、ATP46位まで上り詰めた松岡修造です。

松岡修造の熱い性格は小林一三から引き継がれたものかもしれないと思いつつ、小林は準備に全力を尽くして事業が動き出したら我関せずに姿勢を貫いて事業は現場に任せていたそうですから、松岡修造の熱さとはちょっと毛色が違うかもしれません。また松岡修造は熱いキャラであると同時に、現役時のインタビューでは「もう死んでしまいたい」と悲壮感たっぷりに語ることもあるネガティブ発言も目立つ選手でした。周囲から失敗すると言われながら鉄道を敷いて成功した小林一三と、両親や家族などの反対を押し切ってテニスで成功した松岡修造は似ているようにも思いますが、ちょっと違うキャラなのかもしれないとも思いました。

まとめ

明治時代に住宅ローンを考案し、それを成功させたというのは驚きです。そして日本で住宅ローンが始まったのが、住宅を購入するためというより電車を使う人を増やすために導入されたのが面白いと思いました。しかし住宅ローンは麻薬とも言える面があり、住宅ローンが日本経済を発展させた面もありながら不幸も生んでいます。この辺りの件に関しては、また別の機会に書きたいと思います。

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