マンションの歴史 04 /天国の100万円アパート

戦後の日本は急激に経済成長を遂げ、住宅も一気に変化を遂げていきます。その変化の一つに、鉄筋コンクリートの建物が住宅にも普及したことが挙げられます。関東大震災の後に内務省が設立した財団法人同潤会が、鉄筋コンクリート造の賃貸マンション「同潤会アパート」を建設していましたが、戦後は鉄筋コンクリート造の分譲マンションが誕生します。その第一号が宮益坂アパートメントです。

売主は東京都

東京都が所有する土地に建設され、売主は東京都でした。売り出しは1953年に始まります。地上11階地下1階で、5階から11階の70戸が住宅として売り出されました。間取りは和室が2つの2DKで、34.01平米とコンパクトですが、当時は家族で住むには十分だったようです。

1953年は戦争が終わってから8年目で、日本初のスーパーマーケット紀伊国屋が青山に誕生し、早川電機(現在のシャープ)が初の国産テレビを17万5000円で発売した年でもあります。渋谷は一般住宅が並び、高い建物は東急ぐらいしかなかったところに、11階建ての集合住宅は大変なインパクトがあったようです。

高額物件なのにローンなし法律もなし

販売価格は60万円から110万円で、申し込んだ大半の人が大手企業の役員だったそうです。すでに住宅金融公庫はありましたが、当時は戸建への融資が専門だったので、宮益坂アパートは3割7割の現金払いのみで販売されています。当時の大卒の国家公務員の初任給が7,650円で、民間でも8,000円から9,000円の間ですから、年収10万円台の家庭が多い時代です。60万円以上のお金を現金で払えるのは、富裕層に限られました。

当時は区分所有法もなく、敷地権という考え方もなかったので、土地は東京都所有の借地に建設され、共用部の登記もされていなかったので、後に売却の手続きが複雑になったそうです。これは建て替えの時にも大きな課題となりました。共用部の権利を整理するために、管理組合は弁護士に依頼して数年間をかけて整理することになりました。

「天国の100万円アパート」と呼ばれる

青い制服に白手袋のエレベーターガールが常駐し、各階には郵便物の投函口が設置されています。空調はセントラルヒーティングによる暖房不要の生活で、ダストボックスや交換手呼び出し式の電話の設置など、至れり尽くせりのサービスが充実しています。庶民には手の届かない高級住宅で、11階からの眺望が報じられると「天国の100万円アパート」と呼ばれました

まとめ

宮益坂アパートメントの建設以降、日本は高度経済成長に入ります。東京都が販売した集合住宅の販売が好評になったため、民間業者が参入してくるようになります。いよいよマンションが大量に作られる時代に突入していきます。

マンションの歴史 01 /明治時代の西洋建築
マンションの歴史 02 /モダン建築の始まり
マンションの歴史 03 /同潤会アパート

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です