マンション業界が知っておくべき歴史 /建替えなんてできるはずがない事情

マンションの建替えが議論になるたびに、行政や政治に責任を求める声を聞くことがよくあります。誰に対して文句を言えば良いかわからない時に政府の責任にするのは安易な気もしますが、マンションの歴史を紐解いていくと「建替えなんてできるはずない!」と言いたくなる事情が含まれています。そこで今回は戦後のマンション事情を見ていきたいと思います。

ポツダム宣言の受託と住宅事情

1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言の受託を連合国側に通達し、8月15日に日本国民に発表されました。玉音放送があったのが8月15日で、今も終戦記念日になっています。当然ながらこの時の日本は問題が山積みで、その1つに住宅問題がありました。8月14日に厚生省住宅課が「罹災都市応急簡易住宅要領(案)」というものをまとめました。この中で、深刻な住宅不足が記されています。

戦争による住宅の喪失戸数256万戸(空襲による喪失210万戸+強制疎開55万戸)に、外地引揚者の需要増加分67万戸と戦時期の供給不足分118万戸を加え、戦災死による需要減少分30万戸を差し引いた分の420万戸が不足しているとされました。そしてこの要領の中では、取り急ぎ30万戸の越冬用簡易住宅の建設が急務とされていました。この30万戸は各地方に割り当てられ、冬までに建設することになりました。

困難だった住宅建設

戦後の日本では住宅不足により、バラック小屋があちこちに建てられたり橋の下で寝る人もいました。疫病が流行する心配もあり、秋に入ると寒さのために寝ることすらできない人達もいました。都内のあちこちで焚き火が始まり、それが原因のボヤ騒ぎもあったようです。住宅問題は待ったなしで解決するべき問題でしたが、目標に掲げた30万戸は絵に描いた餅になっていました。30万戸のうち東京都に割り当てられたのは、5万5000戸でした。しかし11月26日時点で320戸しか供給できていません。

戦後直後ですから行政も機能しきれていない部分もありましたし、それ以上に資金と資材(木材)が決定的に不足していたわけです。資金不足解消のため大蔵省主導で個人への貸出が行われましたが、1戸あたり2000円が上限だったそうです。この2000円がどの程度の額だったかというと「現在2000円ばかりにては犬小屋も入手不可能」と言われる有様でした。一方、木材の不足は山を丸裸にするほど伐採して、なんとか流通させようとしました。しかし働き手の不足や流通の問題などで、なかなか資材が行き届きません。この頃から60年代にかけて林業はバブル状態で、次々に山をハゲ山にしていった結果として土砂崩れなどが多発し、慌てて植林することになります。これが今日の花粉症の原因と言われています。

GHQと戦災復興院

こうして住宅不足に政府が右往左往している10月2日に、GHQが東京千代田区の第一生命館に設置されます。ダグラス・マッカーサーが最高司令官として赴任し、日本政府はあらゆることでGHQにお伺いを立てる必要が出てきました。しかしGHQも人手は不足していました。アメリカだって戦争を戦い抜いた後なので、台所事情は厳しかったのです。アメリカの田舎町で駅長をやっていた人物に、日本の国鉄の運営を任せるなど泥縄式の人事も多かったGHQに、住宅問題を解決する手腕はなかったようです。

こうした中、住宅問題だけでなく戦後復興に関わる重要な問題を集約するために戦後復興院の設置を決めました。12月30日に閣議決定され、すぐさま基本方針を打ち出しました。その基本方針とは、戦後復興は各都市の自力更生を基本とするというものでした。各地上自治体から戦後復興には政府の援助が必要だという声が出ていましたが、政府としてもお金がないから各自で頑張れとしか言えなかったのです。こうして住宅問題はなんら解決しないまま、1945年が終えてしまいました。人々は凍える中で焚き火をして過ごしていました。

住宅金融公庫の設立

家がない人が溢れていましたが、お金はあるけど工事をする人がいないので家を建てられない人、収入はあるけど貯金も何も無くしたので家を買ったり借りることが難しい人、貯金も仕事もなくバラックに住んでいる人などさまざまでした。そこで政府は収入はあるけど貯金がない人のために住宅金融公庫を設立します。1950年6月5日のことでした。こうして貯金がなくとも住宅金融公庫からお金を借りて、毎月返済することで住宅に住むことができる人が増えたのです。住宅金融公庫は現在の住宅金融支援機構になります。

日本住宅公団の設立

戦前には同潤会、戦時中には住宅営団という団体があり、日本の住宅供給を行っていましたが、住宅営団はGHQによって解体されていました。しかしGHQは1952年に廃止されてマッカーサーも帰国していたので、政府は新たに日本住宅公団を設立しました。1955年7月25日のことでした。日本住宅公団は不足する住宅事情を解消するために、年間42万戸の供給を目標に質より量の住宅供給を行います。宅地を造成し、その狭い土地にどれだけ多くの住宅を供給できるかを考えると、必然的に集合住宅(団地)になっていきました。

日本住宅公団は、51C型という間取りを考案して2DKの間取りを中心とした団地を大量供給するようになりました。この画期的な51C型の間取りはダイニングキッチンを備えており、都会的なライフスタイルの確率に大きな影響を与えています。また各地方自治体も1951年に施行した公営住宅法を元に県営団地や市営団地を供給していき、空前の団地ブームが起こっています。

建て替えなど考える余裕もない状態

このように橋の下やバラックで凍える人々に住宅を供給することが、政府にとって喫緊の課題でした。お金も資材もない状態でしたが、とにかく住宅を供給して屋根のある家で雨風をしのげるようにすることが重要で、住宅政策は住宅供給だけに注力していきます。50年後に建物がどうなるかなんて考える余裕もなく、もし考える人がいたとしても明日の住まいがない人が溢れている中で、50年先のことを考えて事業を止めることはできなかったでしょう。

現在、マンションの建て替えに大きな課題が残っているのは、とにかく供給することが最優先でその後のことを考える余裕がなかったからだと思います。そして、この時に政府はもっと短期的な問題があることに気づいていませんでした。この問題は、数年後にあちこちの集合住宅で発生することになります。

民間のマンション事業参加

団地が大量に供給される流れの中で、東京都が分譲マンションの販売を行いました。これまでの団地は賃貸でしたが、集合住宅を販売する試みを行ったのです。まだ日本住宅公団が設立していない1953年に、東京都は渋谷に宮益坂アパートメントを建設して販売しました。「天国の100万円アパート」と呼ばれた宮益坂アパートメントは大きな注目を集め、分譲マンションという市場があることを知らしめました。

関連記事
マンションの歴史 04 /天国の100万円アパート

そして1956年には日本信販が東京の四谷に四谷コーポラスというマンションを建設して販売しました。当時の住宅金融公庫のローンは一戸建て用の融資しかなかったため、日本信販は独自の住宅ローンを使って販売していくことになります。これらの成功は日本にマンションの市場を作り、1960年代に入るとマンションブームを引き起こすことになりました。

関連記事
マンションの歴史 05 /四谷コーポラス

噴出した共同住宅の問題

政府も民間も、とにかく住宅供給が重要だったので、50年後の建て替え問題など考えもなかったのですが、それ以上に分譲マンションで住んでからの生活もイメージできていませんでした。そのため実際に分譲マンションでの生活が始まると、マンション内のルールが何もなく問題がいくつも発生します。例えばゴミ置き場などの共用設備の使い方について、誰がどうやって決めるのかルールが存在しないため、住民全員が集まって決定するところもあったようです。しかしそれを無視する住民も出てきます。

しかし住民全員の決定事項にはなんら法的な拘束力がないため、ルールを無視する人が得をしてルールを守る人が損をする社会になっていきました。マンションでの住み心地が悪くなり、今後も大量に集合住宅を供給したい政府にとっては頭の痛い問題でした。そこで1962年に区分所有法が制定され、管理組合の結成をはじめとするさまざまなルールが法的に定められました。東京都が宮益坂アパートメントを販売してから9年後なので、あまりに遅いとも言えますが、人々が住んでからでなければわからない問題も多かったのでしょう。

ちなみに区分所有法以前に建設販売された宮益坂アパートメントは、専有部しか登記されていなかったようです。共用部の登記がなされていないまま転売もされていたため、建て替え時には弁護士が何年にも渡って各住戸の権利関係を整理してまとめていったようです。このようにマンションが供給され始めた頃は、とにかく大量供給することが喫緊で最大の目標だったため数十年後の建て替えはもちろん、住んでからのことなどほとんど考えていなかったのです。

でもほったらかしにされてたよね

こういった話を私がすると「戦後すぐは無理でも、長年ほったらかしにされてたから、今建替えが問題になってるんですよね」という意見を聞くこともあります。全くその通りで、戦後すぐは無理でも今までに建替えを念頭に置いた法改正ができたように思います。ではいつならできたでしょうか。

東京を例に見てみましょう。戦争によって人口が大幅に減少しますが、1945年の終戦から一気に人口が増加します。実に1975年までの30年間で人口は約3倍に増えました。これは都市部の労働力を集めるため、集団就職列車などで地方の中高生を「金の卵」と呼んで集めた結果です。ただでさえ不足している住宅事情は、集団就職によってさらに悪化しています。この傾向は大阪など他の大都市でも同様でした。

これにより1960年代の東京の電車は、通勤時には乗車率300%という異常な状態になり、毎日のように失神する乗客がいたそうです。国鉄が冷房車を導入するのが1970年ですから、蒸し風呂のような電車に乗ってサラリーマンは通勤していたのです。この頃、駅で商売繁盛していたのは靴屋と裁縫屋出そうです。満員の乗客に押されて靴を片方無くす人や、スーツのボタンが千切れる人が後をたたなかったのだそうです。

こういった状況を解消するため、都心部ではあちこちにニュータウンが建設されて都市部の生活を改善しようとしていました。ある程度の住宅不足が解消されると、次は集中しすぎた住宅を分散させる必要があったのです。さらに都市部に住む人が減り、地価が安い郊外に住宅を求める人が増えてドーナツ化現象も起こりました。行政にとっては頭の痛い問題が連続しており、やはり数十年後の建替え問題など眼中になかったのだと思います。

関連記事
ニュータウンはマンションの未来か /これまでの栄枯盛衰を考える

広告問題も山積み

戦後の住宅不足に絡んで、1950年代には不動産屋の広告も問題になっていました。「○○駅近く」と書いてあっても、実際に歩いたら1時間以上かかるなんてことは当たり前でした。また住宅地と書かれていて見に行ったら農地だったとか、土地の面積を誤魔化して書いてあったなど、明らかに嘘の広告も大量にあったようです。そのため政府はこういった不動産の虚偽広告の規制も、急いで行わなくてはなりませんでした。

現在、不動産広告に書かれている「徒歩○○分」というのは、80mを徒歩1分として書かれています。この道路距離の測り方にもテクニックがあるので、今でも実際と違うと言われがちですが、1950年代はそんなことは些細な違いと言えるほどの誇大広告どころか嘘広告が横行していました。1963年に「宅地建物取引の表示に関する公正競争規約」というのが作られ、80mを徒歩1分とするなどの細かなルールが決められています。

戦後しばらくは、家がないけど資材もお金もないから始まります。さらに家を建てる不動産広告は嘘だらけで、ある程度の住戸が確保されると、今度は同じような郊外に人が住みすぎて満員電車や自動車の渋滞が問題になります。問題は次から次へと起こり、それを解決するのに手がいっぱいだったのではないでしょうか。

バブル景気の頃にはなんとかできたか

1980年代半ばに始まったバブル景気は、都市部の地価を高騰させていきました。住宅は供給不足になり、都市部で住宅を購入できない人は「今買わないと一生買えない」と焦って郊外に住宅を購入していました。価格が急上昇する中で、例えば建替え費用を貯蓄するような住民の懐を直撃する政策は取れなかったでしょうし、バブルが弾けた後は住宅購入が急激に冷え込む中で、さらに冷え込む可能性がある政策は取れなかったでしょう。

おそらく、どこかでマンション建替えを考えた政策を盛り込むチャンスはあったのでしょうが、私はいつが適切だったのかと問われると現時点では答えることができません。住宅情勢は建設業界と密接に絡んでおり、建設業界は日本の経済を左右するほど巨大な産業なので、タイミングを間違えると日本経済にダメージがあったと思います。そうなると問題を先送りしてしまうのは、どの時代のどの政府でも同じだと思います。

まとめ

終戦直後は深刻な住宅不足で、橋の下で寝ている人達に住宅を供給することが喫緊の課題でした。しかしお金も資材もない中で、どうにか住宅を供給するべく動いていたため、その住宅に住んだ後の生活や数十年後に起こる問題など考えもしなかったのでしょう。この当時の資料を見れば見るほど、将来的な建て替えを考えることなど難しかったと思います。その後も住宅情勢は山あり谷ありで、将来的なことを考えるのは難しかったのではないでしょうか。だからといって行政の責任がないとは言えませんが、このような歴史を辿って現在のマンション建替え問題があることを知っておく方が良いと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です