メディアから見る時代別マンションの特徴 /②1970年代
前回の60年代のマンションに引き続き、今回は70年代のマンションの特徴を紹介していきたいと思います。中古マンション購入の参考になれば幸いです。70年代のマンションのキーワードは「一家団欒」です。
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変化を求められた家族の在り方
60年代のマンションを紹介した時に、サラリーマンが家庭を顧みずに深夜帰宅や早朝出勤を繰り返し、モーレツ社員と呼ばれたことを紹介しました。当時の男性は好景気に乗って朝早くから夜遅くまで働き、三種の神器と呼ばれた3C(クーラー、カラーテレビ、自動車)の購入を目指していました。しかし70年代に景気の伸びが鈍化すると、これを見直して家族の時間を大事にする風潮が生まれます。家族サービスという言葉が流行り、家庭を大事にしようという雰囲気が生まれます。
70年代の人気テレビ番組
1970年代はテレビの影響が世論に大きな影響を与えていた時代で、この時代の空気や雰囲気は当時のテレビ番組から知ることができます。70年代にはさまざまなテレビ番組がありましたが、ホームドラマの全盛期だったという事実は見逃せません。例えば1970年から放送が開始された、「ありがとう」です。水前寺清子は新米の婦人警官で、両親は保育園に住み込みで働いています。このドラマでは、中流家庭で起こるさまざまな人間模様が描かれました。
1972年から放送が始まった「パパと呼ばないで」は石立鉄男演じる独身男の右京が、姉の急死によって杉田かおる演じる姪のチー坊を引き取って育てる物語です。最初はチー坊を嫌がっていた右京でしたが、徐々にチー坊がかけがえのない存在になっていき、最後には右京と米屋の園子が結ばれます。このドラマはバラバラだった人々が、家族を構築する物語になっているのです。
1974年に放送開始の「寺内貫太郎一家」は、小林亜星演じる石屋の頑固親父の寺内貫太郎を中心に、妻の里子や子供達、母親にお手伝いさんなどが加わり、毎週のようにさまざまな騒動が巻き起こります。反抗期の息子(西城秀樹)とは何かと父子ケンカが起こり、それを妻(加藤治子)が諌め、母親のきん(樹木希林)はマイペースに沢田研二のポスターに向かって「ジュ~リィ~」と叫びます。この慌ただしい一家は、当時の標準的な家庭とは言えないものの、多くの人が共感できる家族像だったのだと思います。
この頃は他にも森光子主演の「時間ですよ」なども人気ドラマで、家族全員が主人公とも言えるホームドラマが人気でした。そしてバラエティ番組は萩本欽一の全盛期でした。視聴率100%男と呼ばれた萩本は、1975年にフジテレビで「欽ちゃんのドンとやってみよう!」(欽ドン)を始め、さらに1976年からテレビ朝日でホームコメディの「欽ちゃんのどこまでやるの!」(欽どこ)が開始しました。これらのバラエティのネタには親子の会話や夫婦の会話などが多く用いられ、お茶の間の家族を意識した構成が目立ちました。
リビングルームの登場
70年代は家族で1台のテレビを囲み、家族全員で同じ番組を見ていました。チャンネル争いという言葉があり、どのチャンネルを見るかで家族でケンカが発生することもありました。チャンネル争いが原因で、殺人事件も発生したほどです。こうしたライフスタイルに合わせて、マンションにリビングルームが登場しました。そのため60年代のマンションは2DKが中心でしたが、徐々に3LDKに移行していきます。
しかしこの頃のリビングルームは現在とは違い、センターリビングが中心でした。リビングルームを通らなければ他の部屋に行けない間取りで、今日では嫌われる間取りです。しかし70年代は家族全員がリビングルームに集まって、テレビを見て家族で過ごし、それぞれに部屋に戻って就寝するというライフスタイルだったのです。センターリビングルームは一家団欒を前提にした間取りで、家族の絆が強く現れています。
1970年代の景気
60年代はオリンピック景気、いざなぎ景気に沸きましたが、1971年にアメリカ大統領ニクソンが突如としてドルと金の交換を停止したニクソン・ショックによって世界経済が混乱します。これにより日本の好景気にも急ブレーキがかかります。固定相場制だったドルは変動相場制に移行して、一ドル360円だったのが1年で308円になりました。
さらに1973年には第一次オイルショックが起こり、省エネが流行語になります。これはイスラエルとアラブ諸国の間で第4次中東戦争が勃発したことが原因で、日本でもデパートのエレベーターが止まったり、建設現場で重機が使えなくなったりとさまざまな影響がありました。最も有名な出来事として、トイレットペーパーの買い占めが発生しました。この時にインフレが発生し、物価の高騰から生活不安が囁かれるようになります。
さらにイラン革命を原因にする第二次オイルショックが1979年に発生し、景気は低迷していきました。この時は第一次オイルショックほどではなかったですが、日本経済に影響を与えていきます。それでも経済成長は続いており、日本経済はまだまだ元気でした。
1970年代の不動産市況
1972年に田中角栄が掲げた「日本列島改造論」により、不動産投資ブームが起こりました。これによりマンション価格も高騰し続け、マンション平均価格が1000万円を超えました。そのため都心ではサラリーマンが住宅を購入することが難しくなり、郊外の開発が進みます。多摩ニュータウンに代表される開発ブームが起こり、乱開発とも呼ばれる開発が続きました。
不動産投資ブームが起こっているのに開発は時間がかかるため、この時代の住宅は質より量で、とにかく多くの住宅を供給することが目的でした。また1970年に住宅金融公庫がマンションローンを開始したため、マンションの購入が容易になりました。そのため公庫付きマンションが人気になっています。オイルショックにより不景気の波が訪れますが、開発により郊外ならマイホームを持てるようになったことに加え、スケールメリットを活かした大規模マンションや団地が多く登場したことで、郊外に人が多く住むようになりました。
60年代から通勤ラッシュや通勤地獄が言われるようになっていましたが、1970年に冷房車が登場したことで乗車率300%に耐えながら通勤するサラリーマンが多くいました。こういった苦労をしても、多くの人が郊外に家を持ちたかったのです。
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代表的なマンション
①三田綱町パークマンション
1971年に竣工した三井不動産のマンションになります。19階建てのツインタワーで、販売時には「空に住む」のキャッチコピーで、多くの注目を集めたと聞きます。このマンションは政財界の大物や芸能人が多く住んでいたことでも話題になったようですが、某有名建築家が購入して傍若無人な振る舞いをしたため、引っ越すことになったという話を聞いたことがあります。
1フロア4戸という贅沢なフロア構成で、総戸数は147戸ですが全てが角部屋になっています。全戸の専有面積は100㎡以上で、とても贅沢なつくりになっているのが特徴です。港区三田の一等地で、麻布十番や綱町三井俱楽部が近接する好立地なので、今でも高い人気の物件です。
②三田ハウス
同じく港区三田にあるマンションで、総戸数は334戸の大規模物件です。竣工は1972年で、2008年には耐震補強工事も行われました。当時の三田は古い建物が多かったそうで、竣工当時は光り輝くお城が出現したように見えたそうです。そして豪華なエントランスに圧倒され、当時としては最新の設備機器が導入されていました。これらは今では古めかしさが目立ちますが、それは仕方ないことでしょう。
敷地内にはレストランやテナントが入り、コミュニティを形成しています。管理は行き届いているようで、ホテルライクな暮らしができると言われています。
千葉ガーデンタウン
70年代は郊外の開発が盛んに行われたと書きましたが、この千葉ガーデンタウンはその一例だと思います。千葉市美浜区に12階から15階の6棟構成で1414戸の大規模マンションです。竣工は1973年で、分譲したのは三井不動産、三菱地所、住友不動産のジョイント・ベンチャーでした。
広大な敷地には公園や菜園だけでなく市場やテニスコートもあり、巨大な街を形成しています。さらにはケーブルテレビの撮影スタジオがあり、総会の様子が放送されています。当時の公団の団地をラグジュアリーにしたような雰囲気で、販売時にはかなり話題になったようです。
まとめ
この時代の特徴は、一家団欒ができるリビングルームが登場したことです。しかもセンターリビングで、リビングを通らないと各部屋には行けないつくりになっていました。家庭を顧みないモーレツ社員は70年代に入ると家族と過ごす時間を求めるようになり、家族でテレビを見る生活が標準的な家族像になりました。そしてこの家族像は80年代に崩れ去ることになりますが、それは次回解説したいと思います。